無とは何もないこと

総てがないのではなく「無」という状態があることずら

「スクールアイドル」という概念の寿命は10年だったのかなあ

ラブライブ!スーパースター!!』2期最終話のAパートで「ヒーラーガール8話みたいな展開はメインキャラでやったら流石に『えぇ…』ってなっちゃうからな」とか言ってたらヒーラーガール8話とだいたい同じような留学中止展開が来て爆笑してしまいました。

留学展開の時点で既に何をやってももうダメだくらいの気持ちで見ていたし、そもそもスーパースターというかラブライブというシリーズが完全にもう限界なのかなあという思いでいるのでもうどうでもいいですけど。

「スクールアイドル」という概念について

「スクールアイドル」というのはアイドルモノを部活モノの文法で描くという画期的な概念だったわけです。アイドルモノに勝ち負けの文脈を持ち込めるんだから作劇には非常に都合がいい。大会で勝つとかの話を盛り込んで具体的な目標を設置できるのだから。

実際には『ラブライブ!』の前年に『プリティーリズム・オーロラドリーム』でガチガチのバトルをやっているんですが、こちらはやはりプリズムジャンプという概念が強い。「強いジャンプを跳んだから勝つ」という有無を言わさない説得力をもたせられます。

ラブライブ!』シリーズはもう少しリアルよりのライブで戦うのでそうはいきません。実際、スーパースター以前だと『ラブライブ!』2期のμ'sとA-RISEしか描いてなかったですね。あくまで「作劇に勝ち負けを持ち込める」であって「勝ち負けを話の中心に置く」システムではないからでしょう。

これまでの作品でも大会としてのラブライブというのはマクガフィンとして描かれていたし、スーパースター2期最終話でもあっさりした扱い(ビックリするほどしょっぱい扱いだった)でした。

結局、スーパースターや虹ヶ咲でなんだかよくわからない展開をしがちなのはスクールアイドルという設定を深掘りしようとすると無理が生じるのが表出したという側面も少なからずあるんじゃないかと感じています。

たとえば高校野球の作品なら春・夏の甲子園だったり練習メニューだったり実在の具体例が山のようにあります。しかし、ラブライブもスクールアイドルも実在しないので練習内容を深掘りできないので走ったりバランス取ったりするということしかできないですね。

スクールアイドルという設定を深掘りできないなら作品によって深掘りできる形にしてしまうのも一つの手段だとは思いますが、スーパースターはそうなってなかったですね。虹ヶ咲1期は良い線いってたんですが、2期のようにユニットを同好会内で組み始めると「じゃあ普通のアイドルモノで良いじゃん」という問いが生まれてきてしまいます。

ラブライブ!』の縛り

結局は廃校・留学などなど別にスクールアイドルと関係ない『ラブライブ!』としての縛りが足かせになってます。むしろ「新鮮味のある展開をしてはいけない」くらいの発想で作られているのが現在の『ラブライブ!』シリーズなのではないかとすら思えてきます。

音楽科がある学校という設定を作ったところで新鮮味のある展開をしてはいけないようなので音楽科を活かした展開は作ってはいけないんでしょう。音楽科を活かしてはいけない例が被差別民(劇中では逆ですが)である音楽科の制服はLiellaにふさわしくないので普通科の制服を着るという"同化政策"を行っているのがそうなんでしょう。

ラブライブには教師が出てはいけないという縛りでもあるみたいなので、「音楽科の先生にボイストレーニングしてもらう」といった展開もできなそうです。

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会が虹ヶ咲学園スクールアイドル部になってはいけないのだって新鮮味をもたせてはいけないからなんでしょうね。

スクールアイドルという設定を活かすひっくり返すような作劇ではなく「安心安全いつもの『ラブライブ!』」みたいなものを作ろうとしているようでなかなか参ってしまいました。

スーパースター3期も新鮮味のある展開をしてはいけないと思うのでおそらくつまらないのでしょう。まあ期待せずにいます。