無とは何もないこと

総てがないのではなく「無」という状態があることずら

『屋根裏のラジャー』の意味不明な要素が原作『ぼくが消えないうちに』を読んだら理解できた話

『屋根裏のラジャー』の原作『ぼくが消えないうちに』を読んだ。読むと『屋根裏のラジャー』での疑問の多くが氷解する内容だった。イギリスで賞を取るだけの作品だ。

『屋根裏』と『消えないうちに』の比較

「イマジナリ」の設定が飲み込みやすい

「イマジナリ」という名称は『屋根裏』のもので『消えないうちに』では「見えないお友だち」という名称。見えないお友だちは子供の頃だけの不安定な存在であるのがきちんと描写されているのは非常に重要。『消えないうちに』では「不安定な存在が具現化した存在」というトイ・ストーリー的な要素が強い。

ラジャーが見たこともない風景を語らない

『屋根裏』冒頭のこれがないだけで話の飲み込みやすさが全然違う。非常に重要な点としてラジャーが見るのはアマンダだけなのだから観客に語りかけてくる『屋根裏』冒頭のモノローグはテーマに対して存在が矛盾している。

冷蔵庫のくだり

邦訳版でもレイゾウコという名前だが「レイゾウコおぼえてる?」「冷蔵庫?」というやりとりでしか意味を成してないのでもっと意訳した名前のほうが良かったのではないか

『屋根裏』と異なり電話の時点でうっすら思い出してる描写が入るのが偉すぎる。レイゾウコの方にも何かを待っている伏線がある。偉すぎ。

ベビーシッター

母親が外出するときにベビーシッターを呼ぶくだりがある。調べたところによると、イギリスでは小学生に留守番させないためにベビーシッター(高校生や大学生のバイトが多いらしく作中でもそう描写されている)を雇うという。日本人の観客に出すには複雑すぎるので『屋根裏』が自営業の家のバイトの子という改変をしたのは賢明だと思う。『屋根裏』の改変は必要なものを削っていたり混乱を招く蛇足だったりが多いが、ここについては文句のない改変だ。

ちなみにやってきたバイトの名前がマリゴールド、愛称はゴールディ。ゴール・D・ロジャーすぎる。

停電戦法

凄い。『屋根裏』と違って戦闘にロジックが存在している。停電が復旧したので黒髪が撤退するくだりは『屋根裏』でもそう解釈できるといえばできるのだがきちんと描写されるだけで非常に飲み込みやすい。

その後にアマンダが母親に信じてもらえないのとラジャーがアマンダにあしらわれる対比なども良く出来てる。

救急搬送

意外にも原作通りだった。でも『消えないうちに』ではイマジナリのルールも曖昧だからどういうこと?とはなりづらかった。これは小説とアニメのメディアの違いの方が大きい気がする。気の利くアニメなら救急車に乗れないラジャーを描写するだろう。

死んでないアマンダ

ジンザンが「アマンダが死んでたらラジャーはとっく消えてる」と断言しているところでビックリ。『屋根裏』のどう考えても死んでない作劇でアマンダが死んだんだとなる展開に驚愕していたので信じられない改変だ。

図書館にて

見えない友だち(『屋根裏』ではイマジナリ)が図書館にいるのは同じ。だが、違いも少なくない。

カバじゃなく恐竜

『屋根裏』のカバは『消えないうちに』だと恐竜だった。恐竜にすると絵面がトイ・ストーリーすぎるということだろうか。

ピカソベートーヴェンのイマジナリは完全にオリジナル。原作の上品な感じからして「大成した作家は子供の頃から凄かった」という下品な出し方するわけがないので案の定である。

キャンプファイヤー

『屋根裏』では図書館が世界の色々な都市に姿を変えるが『消えないうちに』ではそんなことはない。キャンプファイヤーだって図書館の中で開催される。実在しない炎だから本が燃えることもないのだという。

別に変えたからわからなくなったということではないのだが、「世界の観光地でキャンプファイヤーをしている絵面」と「図書館でキャンプファイヤーしている絵面」のどちらがよりアニメとして面白い絵面だろうか。原作通り図書館の中でキャンプファイヤーしたほうがワクワクすると思うのだが。

バンティング以外の都市伝説

バンティング以外の都市伝説や怪談が披露される。バンティング以外の怪しい話が提示されてそういうレベルの与太話と思われてることがわかる。そもそも『屋根裏』のイマジナリたちもバンティングを信じていないはずなのに名前を聞いて戦慄するのはおかしい。

物理干渉できないことはない

『消えないうちに』の見えない友だちは物理干渉するとポルターガイストになるから自粛しているのであって物理干渉できる。『屋根裏』は物理干渉できないと言ってたのに終盤でアマンダたちを物理攻撃するからどういうこと?となるので全く必要ないルールだ。

バンティングがエミリーを捕食する

バンティングがエミリーを捕食する!!!!!!

『屋根裏』でも屈指の意味不明な迷シーン、バンティングが「想像は現実に勝てない」と訳のわからんことを言いながらエミリーを射殺してするところが完全にオリジナル要素だったのだ。

『消えないうちに』だとエミリーを食って「うまかった」と言っている。非常にわかりやすい展開だ。エミリーは本来バンティングの脅威を示すために食われる存在だったのである。

「食われて消え去ってしまったからみんな忘れてしまう」というロジックもわかりやすい。ジンザンと合流するのが捕食後なのでジンザンが覚えていないのも自然だ。あらゆる謎が氷解していく重要なシーンである。

バンティングがイマジナリを食う場面はアニメでやったほうがよりショックが大きいだろう。捕食はダメだが射殺は良いという基準なら謎すぎる。

他の子供に書き換えられる

『消えないうちに』ではキャプテン・ジョンは出てこない。ジョンくんは出てくるのだが友だちになりそこねている。ちなみに、他の子供の友だちになることについては「想像力がそれほど強くない子の友だちになりにいく」ということで何をしているのかが明示されている。

なので、アマンダの友だちのジュリアの友だちになるのが最初の仕事である。

そこでアマンダの友だちだと自己紹介。ジュリアは「アマンダの友だちのロジャーは男の子だった」と言い、ここであたらしい友だちである女の子ベロニカに姿が書き換えられたことに気付く。

姿は女の子になった『屋根裏』と異なり自分がラジャーであるという自覚はハッキリもっている。なんでここで逆張りしたんだよ。

『屋根裏』では1日限定の友だちだが『消えないうちに』では無期雇用らしい。友だちだと思われているあいだは友だちでいられるようだ。

『消えないうちに』のラジャーはジュリアに迷惑をかけるしそれが展開として意味を成す。幽霊を見て怯えるジュリアを児童精神科に連れて行く車に乗って病院にたどり着く。論理的でよくできた作品だ。『屋根裏』のラジャーは救急車で移動するからジュリアと関わる意味が特にない。なんだったんだ。

密室からの脱出

『屋根裏』で小雪が閉じ込められて消えかけるところがなんやねんという感じだったが、『消えないうちに』で消えかけたラジャー(ベロニカ)が消えかけて身体が柔らかくなっているのを利用して小窓から脱出するシーンを踏まえているようだ。

アマンダの病室

ベッドの樹

あれが「アマンダが無意識に想像した想像力の産物」だと『屋根裏』でわかった人がどれだけいるだろうか。ラジャーに樹を生やす想像するアマンダの回想させるべきだろう。自分は「生命力の暗示……にしては不自然だな……」となっていた。

バンティング&黒髪戦

「アマンダが思い出したことでベロニカからラジャーになる」という描写が戦闘に影響してるの偉すぎる。アマンダの想像力が戦闘に描写されるのも偉すぎる。『消えないうちに』では見えない友だちが鏡を通すと見えることがある描写が何度かあったが、レイゾウコが鏡から出てくる伏線だったのか。そしてバンティングのとどめ。レイゾウコが黒髪を突き飛ばしてラジャーを食おうとしていたところに黒髪が入る。まあ無理があるといえばあるのだが、バンティングは味を堪能するため目を閉じていると説明するところが偉すぎる。何もかも偉い。

『屋根裏』スタッフはジョジョの奇妙な冒険とか読んで勉強したほうが良いと思っていたが原作ではきちんと描写できているのだった。

エピローグ

『消えないうちに』は「ママもレイゾウコをしばらく見えてたけどまた忘れてしまった。アマンダもラジャーを忘れてしまうのかもしれないけれど今はまだ一緒にいよう」というエピローグになっている。『屋根裏』で劇的なラジャーとアマンダの別れを示唆したのと対照的だ。アマンダは交通事故で昏睡してたのだから劇的な変化があるわけがないのだし、イマジナリーフレンドについて描くなら劇的な変化であるべきではないだろう。

なんでこうなったのか

公開直前に公開されたプロデューサー(脚本も書いている)インタビューを読むとわかる。

mantan-web.jp

 ストーリー、キャラクターを形作る上では、「ロジカルに作ったら失敗する」という思いもあった。

 「子供の想像、人間の想像って、本当はナンセンスです。だから、脚本上は明快な理由があっても、ナンセンスの領域を残すべく作る必要がある。あえて、見てくれる皆さんが思いをはせる余地が残るように。説明をしなくても、子供は分かっているし、分からなかったとしても感じているんですよね。『屋根裏のラジャー』を試写で見た中にも『理由は分からないけど涙があふれた』という感想を持たれる方もいました。韻文と散文の間にあるような映画、脚本段階では明快にそういう意図をもって構築していきました」

『消えないうちに』が非常にロジカルに作劇しているのに、「ロジカルに作ったら失敗する」という謎の信念で脚本を書いたらそりゃあロクなものにならないだろう。

バンティングが設定から矛盾する「想像は現実に勝てない」と言い放つのもなんかシリアスな雰囲気を出すためだし、ラジャーが心までベロニカに書き換えられそうになるのもなんとなく原作と変えてみたのではないか。ロジカルに作ってはならないと思って作ってるのだから論理破綻を起こしてめちゃくちゃな脚本になっているのは想定通りということなのであった。